==歴史==
=== 文献初出 ===
[[料理]]の記述の文献初出は、「[[日本書紀]]」で磐鹿六雁命([[イワカムツカリノミコト]]、[[高橋氏]]の祖先)であり、[[景行天皇]]が亡き[[日本武尊]]を偲んで[[安房]]の浮宮へ[[行幸]]した際に[[鰹]]と[[ハマグリ|蛤]]の[[膾]]をお出しした記述である。盤鹿六雁命は'''大膳職長'''に任じられたと言われ、後に料理の[[神]]として祭られるようになった。
=== 料理の伝来 ===
米食は[[縄文時代]]からおこなわれていた。古くから煮物、焼き物、蒸し物は行われていたが、揚げ物は[[飛鳥時代]]ごろに[[朝鮮]]や[[中国]]から入ってきたと考えられる。また、中国からは[[仏教]]を通しても特殊な料理や[[茶]]が伝えられ、これはおもに寺院において独自の発展をみた。これが[[精進料理]]であり、精進料理の伝来とともに[[家畜]]や[[ニホンザル|猿]]などの野獣を食べてはいけないという禁令が何回か出ている。
「[[延喜式]]」には西日本各地の[[調]]として[[寿司|なれずし]]があげられている。起源は東南アジアで米に魚を漬けたもの。
=== 奈良時代の料理 ===
[[奈良時代]]には、中国文化の影響が料理や食習慣にも現れ、節供の行事の移入につれて晴れの日の料理が盛んになった。年中行事にはそれに相応しい[[宴会]]が催されたが、中国から伝わった料理法が日本の風土や産物と結び付き、やがて特有な日本風の料理に変化した。
=== 平安時代の料理 ===
[[平安時代]]には、中国の影響を受けながら料理はいっそう発展した。[[唐揚げ]]や唐煮、唐菓子などの料理が登場し、中国風の[[納豆]]なども登場した。[[公家]]の間では食礼式や料理の流派が発達していた。人物では、[[藤原山蔭]]が[[光孝天皇]]の命で新しい料理法([[四条流包丁式]])を編み出した。そのせいか、伝統ある日本料理店では神棚に「[[磐鹿六雁命]]」と「[[藤原山蔭]]」を祀っているいる所が多い。
[[鎌倉時代]]には、[[禅宗]]と共に喫[[茶]]の風習が広まり、[[がんもどき]]などが伝わる。禅僧の修行の際の軽食を「懐石」と称していたのが後の[[懐石料理]]の[[語源]]である。また、[[栄西]]が中国から[[茶]]を持ち帰り、懐石と結びついて茶料理が生まれた。[[ご飯]]を食べるのに匙を使う習慣はすたれ、ご飯碗を手で持って食べるようになった。
=== 室町時代の料理 ===
[[室町時代]]に入ると宮中の料理は[[武家]]の間にも採り入れられ、食礼式が発達した。当時は小笠原流などの礼法が盛んな時代であり、料理の流派としては[[中納言]][[山陰政朝]]を始祖とする四条流が興った。料理書『四条流包丁書』もこのころに書かれたとされる。また、[[足利家]]には大草流があり、この頃より食作法がやかましく言われるようになり、1人分の料理を[[膳]]の上に組むいわゆる「'''本膳の形式'''」による料理が形成された。一方、この儀礼的な料理に対して[[茶道]]から生まれた趣味的な料理が[[懐石料理]]であり、この二つが日本料理の主流を占めるようになった。
室町末期から[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]には南蛮船により南蛮料理や南蛮菓子([[カステラ]]など)が伝わってきた。
=== 江戸時代の料理 ===
[[江戸時代]]には、都市文化が繁栄し、[[天ぷら]]、[[麦茶|麦湯]]などの[[屋台]]による町人の料理が発達した。[[寿司|にぎり寿司]]や[[蕎麦]]の専門料理店ができるのもこのころである。また、都市部を中心に発達したお留守居茶屋などの[[料亭]]の料理は、[[酒]]を飲みながら料理を食べる形式で本膳や懐石のように作法にあまりとらわれないのが特徴であり、これを[[会席料理]]と称した(現在最も多く行われているのはこの会席料理である)。[[砂糖]]の普及により、甘い[[和菓子]]が食べられるようになった。[[陶器]]、[[磁器]]を使い、凝った絵付けを施した食器が広く普及した。また薬食として[[牛肉]]など肉食もわずかに行なわれた。江戸時代中期には、[[輪違い大根]]に代表される「[[見立て]]」という[[飾り包丁]]の技法が発達した。また、この時代には[[黄身返し卵]]などの珍料理が生み出されている。
=== 関東料理 ===
日本料理を完成せしめたのは江戸時代であり、当時の献立や料理書によればその料理の内容が豊かであったことが知られる([[徳川家光]]の時代は奈良[[茶飯]]と[[沢庵漬け]]が[[町人]]の最高の御馳走という有様であった。江戸料理が発達するのは[[元禄]]年間以降である。)。江戸は[[政治]]の中心地であり、諸[[大名]]の[[参勤交代]]をはじめ広く地方の産物や料理法が持ち込まれた。しかし、湾内で採れる[[魚介類]]の新鮮な味は[[江戸前]]の名を生ずるほど優れていたし、近海で採れる[[マグロ]]などの[[刺身]]は献立に欠かせぬものとなった。また、[[タイ (魚類)|タイ]]は「めでたい」の語呂から[[姿焼き]]のまま膳に飾られる事が多く、[[きんとん]]や[[蒲鉾]]などの口取りを添えて[[みやげ]]物として持ち帰る風習が生まれた。これらの特色からそれまで料理の中心であった[[関西]]に対して、江戸に発達した料理は[[江戸料理]]とか[[関東料理]]などと呼ばれた。さらに、江戸時代から[[調味料]]として[[しょう油]]が盛んに用いられるようになったが、関東では汁物や[[煮物]]にもしょう油の味を頼り、冷めても味を損じない濃い味付けが行われ、折り詰などの土産料理として発達した。これに対し関西では従来どおり[[塩]]を基本に薄味に調味された。
=== 関西料理 ===
関東料理に対して、[[大阪]]や[[京都]]の料理は[[関西料理]]と呼ばれた。華やかな江戸文化に対して京都は伝統的な優雅さが特徴で、それは料理の上にも反映された。京都は寺院料理の影響をうけ、また海産物に乏しいことから野菜を使った料理に発展をみた。[[豆腐]]、[[湯葉]]などの細やかな味を生かすために薄味の料理法が発達した。また、干しダラや身欠ニシンなど保存食を上手に料理するのも特徴であった。一方、商業都市として発展をみた大阪は海に近く、魚介も豊かで地方の産物も集まるところから、料理法も進歩を見せている。作法よりも食べて旨い料理に主点が置かれ、冷たくしてお土産に持ち帰る料理よりその場で食べる料理という現実的な考えが打ち出された。これが江戸に伝わり、「食切料理」という言葉で表現されるようになった。現在では関東でも関西でもその長所を取り合い、はっきりとした区別は無くなりつつある。
=== 西洋料理の流入 ===
[[明治]]になると、[[西洋料理]]が入ってきて外国人と交渉のある社会階層で食べられるようになった。一方、庶民階層では西洋料理を元にした[[洋食]]が生み出され、発展してゆくこととなる。料理の流派は包丁式を残し衰退した。また[[神仏分離]]、[[廃仏毀釈]]により[[肉食]]が解禁され[[すき焼き|牛鍋]]などが登場した。それまで本式の料理とされていた[[本膳料理]]は衰退した。この時点で伝統的な日本料理の主要な業態は、会席料理を主とする料亭や高級旅館に移ったと言える。(寺院を主な対象とする精進料理・茶人を主な対象とする懐石料理は独自性を保って現在まで続いている)[[白菜]]や[[菠薐草]]の本格的な栽培もこのころである。都市部の家庭では[[ちゃぶ台]]が使われ、それまでの家父長制的な銘々膳の作法から、食事が家族だんらんの場として認識されるようになってくる。
[[関東大震災]]により江戸の料理の継承が絶え、本膳料理の流れを汲む格式ばった食事作法の伝統は薄まり、くつろいだ雰囲気が好まれるようになった。[[第二次世界大戦]]後、交通手段、マスコミの発達により日本料理における地域差は徐々に縮小するが、[[たぬき|たぬきそば]]の用法が東西で異なる事に代表されるように、調味料の好み等も含め各地の地域差は根強く残っている。
===洋食===
詳しくは[[洋食]]を参照。明治時代以降、イギリス料理やフランス料理から派生したものだが、日本でアレンジされ日本独特のものに変化している。日本生まれの洋食は[[オムライス]]の様に今では世界中で食べられるように広まってきている。
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